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<セガの歴史>

セガの前身、”レイーヤー&スチュアート”が昭和26年設立された。
名前の通り米国人設立の会社であった。

V&V、レイーヤー&スチュアート、太東貿易はジュークボックス業界の
御三家と呼ばれていた。

太東貿易は後にゲーム業界の火付け役ともなったゲーム”インベーダー・ゲーム”
を開発した。現在のタイトーである。

前述した通り、レイーヤー&スチュアートはジュークボックスのメーカーであった
戦後は米軍基地などで米国からのジュークボックスを輸入販売を行っていた。

昭和29年、サービス・ゲームズと社名を変更
昭和32年、サービス・ゲームズ・ジャパン株式会社と社名を変更
昭和35年、年々業績を伸ばした会社を日本娯楽物産と日本機械製造に分ける。

日本機械製造は、米国のパクリではあるがスロットル・マシンを開発し、
ラスベガスなどで好評であった。

日本市場での輸入販売に疑問を感じた経営陣は、ジュークボックスの開発を始めた。
当時はジュークボックスすべて輸入に頼っていた、というよりも日本ではその技術が
無いと思われていた。
しかし、パクリとはいえスロットル・マシン制作できた技術スタッフに
ジュークボックスの制作を命じる。

昭和35年、初の国産ジュークボックスが完成した。
社名”サービス・ゲームズ(SERVICE GAMES)”の”SE”、”GA”をとって、
”セガー1000”とした。もちろん現在の社名”セガ”はここからきている。
内国産のセガー1000が爆発的ヒットを記録したことは言うまでもない。

昭和39年、日本娯楽物産と日本機械製造は再び合併
昭和40年、ローゼンエンタープライゼスと合併し社名をセガ・エンタープライゼスとなる。

昭和53年、業界に革命的ゲームが爆発的ヒットを飛ばした。
タイトーの”インベーダー・ゲーム”である。
セガもパクリゲーム、”スペースファイター”を制作したが、
もちろん本家に遠く及ばなかった。

その後”ヘッドオン”というゲームを開発したが、売れ行きはいまいちであった。
ゲーム業界自体が縮小化をしていった。

次のヒットは当時セガから見れば小企業であったナムコであった。
言わずと知れた”ギャラクシアン”である。
インベーダーの発展型と思うが、技術の進歩をはっきりと感じた。

ナムコは続いて”パックマン”を発表、もちろん大ヒットした。

セガはタイトー、ナムコに抜かれ、業界3位まで落ち込んだ。

”セガ・グランプリ”はヒットしたが、
このころはタイトーの”スピードレース”に負けていた。
セガのこの市場を奪還すべく開発を始めた。

当時のレースゲームは一定時間で終了してしまう、その概念を打ち破ったゲーム
”モナコ・グランプリ”を発表した。

モナコ・グランプリはレースゲームの人気ナンバーワンになった。

映画会社”パラマウント”の弱体に際してセガはCSKに買収される。
正確には買収してもらったのである。
その頃より、セガは上場企業を目指していた。

昭和60年、日本初の本格的体感ゲーム”ハングオン”を発表
その後にも体感ゲームを連発した。
有名な”スペースハリアー”、”アウトラン”、”アフターバーナー”である。

この頃より、セガは業界ナンバーワンの地位を確立したのである。

当時のゲーセンはイメージが悪い不良の溜まり場といったイメージがぬけてはいないのである。
そんなとき、フジサンケイグループが企画したイベント”夢工場”に出展した。

夢工場なるイベントはたいした物ではなかったが、セガのブースは大盛況であった。
ラジコンにカメラを設置し、アウトランの画面で車を操作するゲームは
”スーパーサーキット”と銘々され、4時間待ちの行列を作るほどであった。

当たり前のことだがゲーセンとは客層が違う。
ここに目をつけた経営陣はアミューズメントパークの作成に取り掛かる。

昭和63年、東証二部上場

昭和63年、”ジョイスクエア・イン・ハママツ”を開設
敷地面積700坪というゲーセンの常識を覆すアミューズメントパークであった。

同時期、滋賀県長浜町に”楽市楽座”を開設
続いて、”GIGO”、”ガルボ”、”ジョイポリス”

どれも大盛況であった。

これが、16ビット時代の始まりである。
PCエンジンは発売され、後にセガは”メガドライブ”を発表した。

ソフトは”獣王記”、”スペースハリアー2”などのアーケードの移植版である。

しかし、PCエンジンもメガドライブもたいした売れ行きではなかった。
ソフトが面白くないからである。

任天堂にはスーパーマリオという看板ソフトがあった。
スーパーマリオは知らない人はいないであろうと言うほどの人気である。
セガにそれに匹敵するゲームはあるのか?無い...

そこで開発されたのが”ソニック・ザ・ヘッジホック”である。
スピード感においてはマリオを超えたのは確かである。
日本ではそれほどでもないが、アメリカでは”ジェネシス”(アメリカ版メガドライブ)
は売れ行き好調で”スーパーNES”(アメリカ版スーパーファミコン)よりも売れたのである。

後にメガCDも発売された。

この火付け役は松下の”3DOリアル”であった、
ソニーは”プレイステーション”、セガは”サターン”を投入
その他のメーカーも発売したが、すぐに消えてしまった。
あのハードを買った人はどうなったのであろうと思うが仕方の無いことである。

セガはアーケードで人気の”バーチャファイター”を移植、サーターン=バーチャの方程式がなりった。
当時アーケードで爆発的ヒットを記録した”バーチャファイター2”の人気も後押ししたはずだ。

プレステはナムコの”リッジレーサー”を同時発売
双方一歩も引かない対立の構えとなった。

プレステ、サターンは約半年で100万台に到達。販売価格を下げ更なる販売台数を
確保していった。

翌年、セガはアーケードで人気の”バーチャファイター2”をサターンに移植した。
私自信もその移植技術に驚いた。アーケードの移植ゲームはあるが常に(?)アーケードに
届かない、または見劣りするのが今までの常識であった。
それが100%コピー出来たのである。

事実その人気ぶりは、バーチャと言えば、バーチャファイターというほどである。
(バーチャルなんとかというゲームは多いが...)

プレステは”パラッパラッパー”を発売、大ヒットであった。

ここで決定的違いが現れた。客層の違いである。
家庭用ゲームにおいてマニアを対象にしたセガ、
ファミリー、女性を対象にしたソニーである。

この市場の違いが大きな違いになったはずである。

売れ行き好調にプレステに売り上げのとまったサターン
大手サードパティーの”エニックス”、”スクエアー”は
ニンテンドー64に見切りをつけそろってプレステの参入を発表。

ここで決定的な差ができてしまった。

ソニー、セガの勝負付けは終わってしまったかのように見えた。

セガはバーチャ3の移植先をサターンではなく、次のモデルへ変更した。
平成10年発売のドリームキャストである。

湯川専務を宣伝に使い、CMは話題を呼んだ。
しかし、当のドリームキャストは発売半年で90万台とサターンよりも
売れ行きは不調である。

対するソニーはDVDを搭載したプレイステーション2を制作している。
その制作発表は世界を震撼させた。
同日インテル社が発表したペンティアム3の性能ははるかに凌ぐ出来なのである。

ソニーは大手コンピュータソフトメーカー”マイクロソフト”に対する挑戦と位置づけている。
しかし、セガのドリームキャストはマイクロソフト社のWINDOWS・CEを搭載した。
両者の選択は大きく変わった。

そして、任天堂は松下、IBMと提携し2000年末に新ハードを出荷すると発表した。
平成11年、アメリカでアメリカ版ドリームキャストが発売される。

セガはドリームキャストの売れ行き不調と日本の不況に直面し経営不振がたたっている。

先日、社員4000人の内、1000人をリストラすると発表された。
湯川専務はリストラの対象なのだろうか?

ドリームキャストの宣伝文句に”勝負はこれからだ”というのがあった。
もちろんプレステに対抗したわけだが、結果的には墓穴を掘ってしまったのかも知れない。

しかし、悲観するものでも無いのではないかと思う。
現在90万台、サターンの時とあまり変わらない。

ドリームキャストの販売は米国においては成功するであろうと考えられる。
インターネットが盛んな国だけに、モデム内臓のシステムでゲームが出来るのはすばらしいのではないだろうか?
任天堂、ソニーはいくらで販売するかわからないが金額が勝負の分かれ目だと感じる。

しかし、それはソニー、任天堂の出方次第なのだ。
この業界は落ちるときは一気に落ちてしまう。
64が失敗し、落ち込んだ任天堂はその良い例である。


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